12月15日、港区の高輪区民センターにて
★先生のご講演「港区の歴史と環境」がありました!
すでに6回目を数える今回の講演は、慶應大学アート・センターの森下隆氏をお呼びしての
対談となりました!
森下さんは、慶應大学アート・センターの「土方巽アーカイヴ」を長年牽引してこられた方で、土方巽と生前からつきあい、没後も、長い年月と労力を費やして土方さんの身のまわりのさまざまな資料を整理してこられました。そのおかげで、いまや世界中から集まる研究者たちに、土方巽とその舞踏を調査してもらえるよう、素晴らしい環境を慶應大学のなかにつくることに成功しました。
そして今回は、その森下さんが、これまで土方さんを調査する過程で、港区の古川(慶應大学にもとても近いですね)周辺をフィールドワークすることで、次第にわかってきたことがある……と、
巖谷先生が、これは「港区の歴史と環境」につながる話になるだろうと思いつき、今回の対談のお相手にご指名されたそうです。 ……土方巽とこの古川周辺というのは、じつに縁があるようなのですね。
土方巽の「舞踏」は、土方さんが秋田生まれ(細江英公さんの写真でも強烈!)ということから、
東北の、農村の、土着の、イメージから語られることが多いですけれど……
今回のお二人の対談から、その「舞踏」の源が、じつは……だったのかもしれない、そう理解する方が自然! という思いがけない展開になり……私たちは港区の歴史と環境を学びながら、土方巽の「舞踏」のルーツまでも知ることになるのでした!
くわしくは、以下okjのリポートをご参照くださいませ〜☟
今回のお二人の対談で、かつての港区・古川周辺の世界と環境が明らかになりました。
土方巽が戦後すぐ、二十歳で秋田から上京してきて暮らした、高輪の正源寺や古川沿いに立ちならぶ「簡易宿泊所」——当時、引揚者(出征も、引揚げも、品川駅からでした)や、地方から出てきた人々など、住むところのない人々が、こうした住まいを提供してくれるところへ集まってきて、貧しくも多様な、混沌とした世界を形成していたそうです。
古川周辺は工場街でもあったので、戦争の頃は標的ともなり、すっかり焼かれたこの地には、すぐさまこうした宿泊所が建ち並び、人々が職を求め、たべものや娯楽を求めていたそうです。周辺にはおかま街あり、食堂あり、温泉あり、映画館あり、踊りの稽古場あり、画家あり、芸人あり……の世界。
今日の客席には、なんと当時の簡易宿泊所を見たことがある、というマダムがいらっしゃり、巌谷先生、森下さんと客席との話のかけあいにもなりました。これが港区講演のすごいところ、観客の熱気!
土方さんはそうした町の雰囲気と人の集まる簡易宿泊所で、人間の動きを観察しながら新しいダンスを考えていた、そこには人間の生(なま)の生き方があった……と話される先生方。
土方さんにはフランスの小説家のジャン・ジュネの影響もあったでしょう、文学者・三島由紀夫や澁澤龍彥らとの交流も、また目黒アスベスト館や大野一雄、当時の(若手)アーティストだった中西夏之や池田満寿夫、富岡多恵子、そのほかたくさんの名前も挙がり、1963年の舞台「あんま」へ。
巌谷先生が体験した、土方さんがあらゆる領域の芸術家をひきこんで、あらゆるものをつなげて世界を「振り付け」ていった様子を語ってくださいました。
当時の時代の「危機」という感覚や、新しいものが「貧民窟」から生まれでたということ、土地の歴史・戦後の環境との結びつき、というところに注目して対談を展開され、 人間を支える背景となる「環境」、さまざまなものを身につけていった過程のなかに港区・古川の環境があったと定義づける巌谷先生の視点は本当に目からウロコ! 会場も駆けぬけるような盛りあがりで、聴いていて震えました。
すべて連続していく、アクチュアルな講演は、いまを生きるわれわれにまさに必要なものです。
森下さんが用意してくださった当時の古川周辺の写真や、土方さんのもっとも古い舞台や稽古場などの写真の数々もすごくて、もっともっと見たかったです。土方さんの身体はまるでオブジェ!
これまた土地そのもの、時代そのもののような五反田「グリルエフ」での夕食会も楽しかったこと! 本当にありがとうございました!
次回は来年2月9日(土)、港区のあらわれる映画について、明治学院大学の齋藤綾子先生とのご対談です。
ゴジラやクレイジーキャッツも登場するそうですよ~~見のがせません!
(okj)
コメントをお書きください