巖谷國士★講演「〈見る〉ことの自由」@下北沢B&B

「〈見る〉ことの自由」と岡上淑子さんについて

11/17 、下北沢のブックカフェで催された★講演会。
「〈見る〉シュルレアリスム」という巖谷先生のご講演は、雑誌「mille(ミル)」の創刊(0号)にちなむものでした。「mille」(フランス語で千、多数)は日本語の「見る」をかけたタイトルで、いわば見ることの多数性、多様性を意味しています。

★先生のお話は、その表紙に使われた岡上淑子さんのコラージュ作品と、表紙下のリード文(収録されているインタビュー「時を超える夢 by 岡上淑子」からの言葉とエッセー「見ることの自由について by 巖谷國士」の一部引用)に、触れることから始まりました。

じつは岡上さん、太平洋戦争をはさむ暗黒の時代に、ここ下北沢に住んでいたのです。

敗戦後の、大空襲のあとの東京を自転車で走り、焼け跡の廃墟を目のあたりにしつづけた彼女の体験から語りおこし、自由と自立を求めて文化学院で服飾を学ぶあいだに、自然とコラージュをつくるようになった彼女の体験を、第一次大戦直後のケルンの廃墟で始まったエルンストのコラージュにかさねて話す展開は、まさに臨場感のあるものでした。


岡上淑子さんはコラージュを意図的に「つくった」のではありません。「できちゃうの」だと言っています。

そこにシュルレアリスムの芽生えのあることを瀧口修造が見抜き、「続けなさい」と言ったことの意味、そこに「自由」の可能性があったんだ、という★先生のお話は、先日の京都のギャルリー宮脇での講演にもつながりました。それだけではありません! そう、今年の春夏に開催された 「〈遊ぶ〉シュルレアリスム展」に、岡上淑子作品をとりあげよう、展示しよう、と考えたのは展覧会を監修された★先生でした!


「自由」とは与えられているものではなく、また国語辞典の定義にあるように「思うがままにふるまうこと」(国際社会でも思うがままに嘘をつく首相など自由とは無縁です)でもありません。


むしろこの社会では人間が不自由であることを知り、自由を求めて生きることこそが「自由」のありかたであって、★先生のおっしゃる「見ることの自由」もまた、その方向を指し示すものでした。

かつて第一次大戦の体験から、合理主義と科学技術信仰の誤りを思い知った若い詩人やアーティストたちは、ルネサンス以来の絵画のありかたにも反抗し、「見ることの自由」を求めました。

 

たとえば遠近法からの解放。遠くはなれた富士山を目の前にあるかのように見て描く北斎の版画が、セザンヌ以後のヨーロッパ絵画に影響を与えた例など、とてもわかりやすく、〈見る〉〈遊ぶ〉シュルレアリスムへのみごとな導入になりました。

コラージュには遠近法がない、むしろ遠近法を攪乱する行為こそがコラージュではないか、という見方にはびっくり。でもそのとおりです。岡上淑子のコラージュもエルンストの『百頭女』と同じように、廃墟を思わせる背景の上で、大小さまざまなオブジェが浮遊しながら出会っているではありませんか! これも〈見る〉自由の追求でした。

こうしてブルトンの『シュルレアリスムと絵画』の冒頭にある「野生の状態にある」目、「野生の目」へと展開してゆく★講演は、いつもより短い70分という制約がありながら、まさしく「自由」だと感じられました。

ゲストbookにnawaさんのコメントもあるのでくりかえしませんが、下北沢という不思議な町にふさわしい、また原発の時代への視線をも決して失うことのないアクチュアルな講演でした。

(trois と ukk)