巖谷國士★特別講演「ヴィーナスは裸にされて、さえも」@カスヤの森現代美術館

横須賀市にあるカスヤの森現代美術館は、もともとこの地にあった森がそのまま美術館になっています。

美術館の背後にある森には、250体ものかわいい羅漢さまが、林間の空地には宮脇愛子さんの「うつろい」が、竹林のなかに、さまざまな樹木が共生しあい、大きな生命体として息づいています。


★先生は、登場した時点からすぐに、この美術館の姿をその環境からほのめかします。


美術館の窓からはいつでも森が見え、自然界とつながっている、絵もまた窓なのかもしれない……生命体としての森や、森で起きるおとぎばなしを糸口に、絵画の窓へと私たちの視線を導きます。


窓のように点々とかけられた若江さんの絵には、あまりにも有名な「名画」の数々が引用されているのです。さあ、これから★先生による絵画の読み解きがはじまります〜!


若江さんの引用する「名画」たちを、各時代の政治、事件、民族、風土、文化、宗教戦争、美術、神話、聖書、図像、象徴……といったあらゆる視点から、次々と解きあかしていくさまは、超一級のサスペンスのようで、息もつけないほど。こんな立体的な……もはやそれ以上に、四次元的な美術史がたちあらわれるとは!


講演の過程で明らかになる、ヌードとは何か?裸体とは何か? 日本語にある「裸婦」ではない、裸体を描いたルネサンス以来の名画の読み解きーー。ジョルジョーネによる横たわる女性の裸体画が登場してから、ティツィアーノ、ゴヤ、マネとさまざまに変化・展開していく、裸体の絵画史を鮮やかに! エルンストの百頭女にまで!★先生の語りがくりひろげられるのです〜。


いよいよデュシャンの登場ともなると、若江さんがご自身の作品に引用したデュシャンやクラーナハやティントレットやアングルの作品までも、さまざまに浮かびあがってきて……★先生が問う、絵画における「泉」とは何か? へと、お話は音をたてて転がりはじめます!


日本語では同じ「泉」でも、フランス語ではla source(湧水、源泉)とla fontaine(湧水がたまった場所、噴水装置)とあって、アングルの《泉》は前者で、デュシャンの《泉》は後者であるーー。

ライプツィヒ美術館にあるクラーナハの《ウェヌス1》では、水の精=ニンフを噴水ととらえているーー。

デュシャンの「遺作」を実際に★先生が覗いたとき、その裸体は自然界に置かれたのだと感じたーー見ることの不自由をともなう、デュシャンの覗く「遺作」ーーそこには滝がおち、デュシャンが森や自然をよみがえらせているようだ、ともおっしゃいます。

そして原初の森のなかに裸でうろつく楽園のエヴァ……アンリ・ルソーの描いた世界までも見通してしまう★先生!


泉は古今東西、女性とともに描かれ、つねに裸体とともに描かれてきた長い歴史を指摘し、それをデュシャンが便器に置きかえたこと、それによって生じるシニフィアンにまで迫ります。


それまでの美術史に受けつがれてきた主題を、すべてひっくり返して考えなおすこと……当の便器はすぐさま消失し~残ったのはスティーグリッツが撮影した写真のみ〜その写真に残る便器の姿のシニフィアン〜フィラデルフィア美術館の大ガラス《花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも》の向こうに透けて見える噴水。



若江さんの作品にあらわれる、裸体の絵画史に寄与した大作家たちについても、★先生がくりひろげる解説が忘れられません!

宗教戦争やペスト流行〜「神の死」〜それまでの価値観がゆらいだ16世紀〜マニエリスムの誕生〜そう! この展開からさらに★先生は、マニエリスムの裸体の系譜までも示してくださいました。

16世紀と同じく、不安で不穏な現代ーーその現代にいたるまで、長く描かれてきた裸体には、つねに泉がまとわりつき、裸体は森とつながっていることを明かしてくださった★先生。「裸体」という主題を、「裸婦」と名づけた日本のアカデミズム的な女性差別的な文脈から、泉へ、森へと解き放ってゆくすばらしい読み解き〜! 


 観客である私たちも、すでに妖精のように自由な身となり、カスヤ羅漢の森をふたたびさまよい、海辺のモン・アナログ晩餐会へとくりだしたのでした〜!

(okj)