巖谷國士★講演「Who’s 岡崎和郎ーオブジェ・ダダ・シュルレアリスム」@千葉市美術館


WHO'S WHO (who is who?)ーー「人名録」あるいは「誰は誰?」とも訳せる謎かけのようなこのタイトルから、岡崎さんの編む「人名録」あるいは、問いかけ「誰は誰(何)?」に迫ってゆく★先生!

人のみならず自然や身の回りのどんなものにも働く私たちの想像力と類推の力……「見立て」とは世界をアナロジー(類推)でとらえ、言葉だけでなく、ときには記録やオブジェの形をとって、私たちの目の前にポンっと提示させること!

そもそも「見立て」は、私たちの生活のなかでもさまざまに使われ、日本文化の基礎ともなりうる思考・表現方法であり言葉です。見立てること、擬(なぞら)えること〜といった人間本来の思考方法によって、似たもの同士がどんどん繋がり、連鎖して円環を描くように大きな世界がたちあらわれてくる……

私たちが毎回、★先生の講演を聴いて目からウロコを落としてる、あれのこと! 目の前のもの、テーマにしていることが、★先生の密やかな合図で「きゃ、これって世界の縮図だったの⁈」みたいな……

アナロジーはデジタルやミメーシス(模倣)とはまったくの別物で、★先生は「アナログ/アナロジー」の古代ギリシア語源「アナロギア」にあたって、詳しく解説をしてくださいました。
アナ=似たものや対応するものを脇に置き…ロギア=それをつけたり離したりしながら言葉や形として記録する……このアナロギアな作業から生まれたものを、岡崎さんは「補遺(ほい:サプリメント)」と呼んでいるとも★先生。         

さらにここから「岡崎さんとは誰か?」について語られます。
★先生が瀧口さんを通じて岡崎さんと出会った物語……やがて岡山出身の岡崎さんを通じて備前焼の陶芸家・伊勢崎さんとも出会ってしまう物語……人間関係もアナロジーのように連鎖して、はてしなく拡がってゆく……そして強度の「出会い」とは何か? まで。

★先生が1982年に富山にて瀧口修造の追悼展で岡崎さんの作品《HISASHI》を初めて見たときから、二人の関係は感覚的に具体化し、横田茂ギャラリーでのひっそり展示(告知するデジタル情報はいっさいなし。現在もWikipedia 情報すらない!)に際し序文を執筆することになって以来、たがいの対話がいよいよはじまったのは、2011年の東日本大震災以後だったと★先生は言います。

震災に感応し、自然に近づき、自然とつながっていった岡崎さん……北斎版画にアナロジーで結ばれ、「消し絵」(実際は足し絵、サプリメントであると★先生!)という新しい世界が生まれました。そして岡崎和郎展によせて「オブジェ論」をやってみようと★先生と目くばせし、このたびの『ユリイカ特集号  ダダ・シュルレアリスムの21世紀』に収録された「対談」へと連なります。
この「現代」において唯一有効なのは「シュルレアリスム」であり、その表紙にふさわしいのは岡崎さんの作品以外ないと確信していた★先生。この展覧会タイトル「見立ての手法」にも「手」が入っている重要性をいい、また「見立て」とは意図されるものでなく、結果として私たちが多様に読みとるものであることを、指摘するのも忘れません。

本展図録に掲載された、たった1枚の岡崎さんのセルフポートレート《手びさし》から「岡崎さんとは誰か?」を無限に見立ててつまびらかにしてゆく★先生!
オブジェもまた「見立て」の手法・手段であるといい、デュシャンの《泉》を例にオブジェの威力を示しながら、岡崎さんとデュシャン、マン・レイとの関係を明らかにしていきます。岡崎さんにしかつくりえない《HISASHI》という領域についても……展示作品や図録の掲載作品を次々と示しながら、★先生は「Who's 岡崎和郎」の核心へと切りこみ、ときにさらっとほのめかして、無数のアナロジーを浮遊させていきます。
ヨーゼフ・ボイスとはちがう、単純ですばやい一瞬の見立て。
休息していた記憶をよみがえらせる作用…戦争・原爆・黒い雨…意図せずともオートマティックに出現させる。
人工的に見える鉄ですら、そこに自然物としての記憶、武器としての記憶がよみがえる。
手の刻印からは芸術の発生や大地から疎外された人類が自然界に再び参加する営みまでをも見通してしまう。
マン・レイのその先(次)をいく仙人掌の見立て。
一升瓶やソフビの内側の型どり、世界の皮膜、事物の裏返し。
りんごという無限のアナロジー。りんごが先か、矢が先か。矢とは何か……岡崎さんと瀧口さんの出会いから読みとく。リバティパスポートに導かれる自由な出会い。
《Wink Ring》のアナロジー……マルチプルであると同時に1対1の関係であるとずばり!
それは障壁ではなく、 空間を上下に切って庇ってくれる自然物の《HISASHI》。
北斎の自然界のダイナミズム、絵のなかでオブジェとして共生する自然と人間。
これぞずばり現代!と指摘する《ウィリアム・テルの記念碑》。「りんごを射よ!」というほのめかしに背筋がゾクゾクします〜。

岡崎作品はアナロジーの無数の山、そこに動的な宇宙が見える〜と語る★先生ーー意味がどんどん浮遊して広がっていき、岡崎さんの作品が彼のほかの作品ともじつに軽妙につながってゆくのです。
なんてオートマティックでシュルレアリスムなんでしょう! ルネ・ドーマル『類推の山』の話中話「空虚人と苦薔薇の物語」のうつろびとと、岡崎さんの空洞を実体化するという創作行為とが、ふるふると結びつきます〜。
人間にとって本質的なこと、そして芸術の起源に迫る★先生のお話は、本当に感動的でした。1対1の、私たちへの贈り物そして出会いですよね。
岡崎さんの生涯にわたる作品と、「岡崎さんとは誰か?」「誰は誰か?」「誰は何か?」を普遍的に語り、ひっそりと過激に「現代」に迫るご講演。この日会場にやってきた観客1人1人に応え、内容を展開してゆく★先生の無数のアナロジーとウィンクが、点滅★またたく、素晴らしいご講演でした〜。
(okj)