巖谷國士★講演「合田佐和子さんの思い出」@銀座ブロッサム「ミモザ」(森岡書店 銀座店主催)

「合田佐和子 90度のまなざし」展(2017年9月4日-10日、森岡書店銀座店)の関連イヴェントとして、巖谷國士★講演「合田佐和子さんの思い出」がおこなわれました。巖谷先生の語りの遠景にひっそり、だがはっきりと存在している合田さんのまなざし。

本展は合田佐和子著『90度のまなざし』(港の人刊)ただ一冊だけが店頭にならび、合田さんによる「眼」のドローイングと一点の油彩が展示されるという企画です。

先月刊行された『合田佐和子 光へ向かう旅』(平凡社刊)に寄せられた巖谷先生の巻頭エッセー『「眼」の人 合田佐和子さん」とも通じています。岡安圭子さんによる朗読で『90度のまなざし』から「祭」と「レンズ効果」を聴くことができたことも幸いでした。

講演の冒頭ちかく、同書が偶然にも武田百合子さんの遺稿集『あの頃』と同時期に刊行されたことにふれ、性質の異なる二人は「見者」、すなわち見る人であることで共通していると先生は指摘します。それは「あるがままに見る」という意味ではなく、「物を見たい」という根源的なものをもっていたのだ、と。

「見る」ことはしばしば教育によって画一化されてしまうが、そのような常識や紋切り型を否定し、自分の見方を探求する人。「自由な人」とはこの世界が自由でないことを知り、それを獲得しようと試みる人のことである。

 

先生と合田さんは友人同士で年齢も近かったが、実際に交流が始まったのは互いの仕事がすでに確立していた80年代になってからでした。しかし60年代に瀧口修造を介し、その存在を間接的には知っていた。その頃の合田さんが捨てられたもの、役に立たないもので制作したオブジェ(人形)たちは、高度成長の時代、すなわち格差を生む一種の「戦争」の時代へとその眼を向けていた。それは既存の役割から「もの」を解放する、ダダ・シュルレアリスムの精神とも共鳴するものでした。

先生は日本経済新聞の連載「植物幻想十選」で合田さんの「Rose」を取りあげています。合田さんは植物ならバラを好んで描きました。描いたように見えて実は写真であるこのバラの渦は、洞窟のように、奥へ奥へと「眼」をさそう。そこには「ノスタルジア」(幼年期の思い出を越えた、太古への、自然と連続した世界への思い)がある。

★の語りの中に見え隠れするまなざしは、私たちの時代にも目配せをし続けています。

 

ymk