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巖谷國士★講義 PC 第3回「プラハについて」

 

 3都市をめぐる講義のなかでも、★先生がいちばん語りたかった都市、それは「プラハ」という町だった……と、まるでオデュッセイアがそれまでの冒険譚を語りだすように、★先生もまた、旅の記憶、そこで出会った人格をもつ町の記憶を、静かに、情熱的に、語ってくださいました。

 

 まず私たちが知るところのプラハの断片から……。

 数年前、東京・六本木で公開されたミュシャ(チェコではムハと呼ぶ)の堂々たる「スラブ叙事詩」の一連の歴史画にはじまり、ボヘミアグラスに代表されるガラス芸術、音楽ではスメタナやドヴォルザーク(チェコではドヴォジャークとも)、ヤナーチェクやモーツァルト、文学においてはカフカやチャペック、映画もカレル・ゼマンやトルンカらの人形アニメーションがあって、なにより20世紀前衛芸術においてはトワイヤン、シュティルスキー、シュヴァンクマイエルといったシュルレアリスムの巨匠たちが居ならぶという……チェコ・プラハ、その背景となるボヘミアとモラビア、スラブ民族全体の文化的存在感の、その圧倒的な広大さと深遠さに、私たちは気づかされます。

 

 スラブ系といえば、中欧・東欧、ロシアにまで分布する民族の大きな諸集団ですが、古代ローマ帝国の東西分裂以後、歴史のなかでつぎつぎおこる周辺の列強に翻弄されながらも、彼らがスラブの言語・言葉に共通のアイデンティティを見いだして、口伝えに、伝説や物語や教訓をのこし、人形劇や舞踊や音楽や絵画を共有することで、みずからの誇る文化の断絶を拒むことができた……そうしたスラブ諸民族の「共通の場所、あるいは故郷」として★先生は「プラハ」を挙げ、ヴルタヴァ(モルダウ)河に架かるカレル橋と、そこから見上げるフラッチャヌイの丘、プラハ城の全景を、社会主義時代に訪れたときの写真と近年に撮った写真とをさまざまに並置しながら、町に伝わるひとつの象徴的な伝説を教えてくださいました。

 

 7世紀、リプシェという美しく聡明な、先を見通すことのできる女王がいて、その女王が森の奥深くで木を苅っていた屈強な男を婿に迎えいれるとき、その木材で誰もが入ってこられるような大きな城をあの丘のてっぺんに建て、ここをプラハ(プラーフ=城の敷居の意につうじる)と呼ぶだろう、と予言したのでした。また彼女は(ばかな)貴族たちのもとめに応じて男性の王を戴く国とするために、みずからは王妃になり下がるが、はたしてそれで「自由」を手ばなすことになってもいいのか? と市民たちに問いかけたのだ……とも。

 

 リプシェの問いかけは谺のように人々のあいだに染みこんでいたにちがいなく、その後ボヘミア王国のカレル1世が神聖ローマ帝国のカール4世となり、首都をプラハとしたときも、プラハの市民たちはプライドをもって、ローマやコンスタンティノープルにもおとらない「黄金のプラハ」と呼ばれる一時代(14〜16世紀)を築きました。カトリックの守護聖人たちのならぶ壮麗なカレル橋をつくったのも、中欧最古のカレル大学をつくったのも、占星術と錬金術を駆使して、宇宙時計や魔法の都をつくったのも、リプシェの声がつねに響いていたからでしょう。その声を身近に聞いていたルドルフ2世もまた、プラハに世界中の驚異を集め、不思議の館(ヴンダーカマー)をプラハ城につくりあげましたが、最大の宗教戦争といわれる三十年戦争でスウェーデンの侵攻をうけ、プラハの威容は弱まり、やがて神聖ローマ帝国の一部にくみこまれて、ドイツ人による支配下に身をおくようになりました。その「暗黒の時代」は第一次大戦後までつづいたといいます。

 

 第一次大戦後にチェコスロヴァキアは解放され、その首都プラハは大戦間の20年(1918〜38年)のあいだにふたたび女王リプシェの声をとりもどし、生命を吹きこまれました。

 中世、近世、アール・ヌーヴォー建築のただなかにキュビスム建築を調和させ、当時のヨーロッパを席巻していた20世紀前衛芸術を積極的に受容して、そのメッカとなって復活したプラハは、1935年に訪問したブルトンとエリュアールに「魔術的都市」と形容されたほどでした。

 

 だがしかし、その後の第二次大戦下では、ファシズムの包囲とヒトラーの占領をうけ、町は無人の博物館と化し、やがて戦後はソヴィエトに近づいて社会主義の国へと変容してゆきます。そうしたなかで、1968年にはプラハの春で改革運動がおこり、1986年にもビロード革命でプラハのヴァーツラフ広場には80万人もの人々が民主化をもとめて参集し、血を流すことなく全体主義にかたむく政権と闘ったのでした……。

     

 こうして町が変遷してゆくさまを聞いたあと、ふりかえって私たちがその姿を仰ぎみたとき、なんだか時空もないまぜになり、ただただプラハという町の魔術的な美しさに、女王リプシェの(空想上の)おもかげをかさねてしまうのでした。

 

 ★先生は最後に、アンドレ・ブルトンの言葉を引用されました。これは、プラハで活躍した女性シュルレアリスト『トワイヤンの作品への序』として書いた言葉(1953年)です。それを読み、いよいよ具体的に、プラハ誕生のときから棲まう聡明なる女性像を感じとることができたので、ここに引いておきますね。きっとみなさんも、この引用からみごとにプラハを共有できてしまうことでしょう。

 

 「アポリネールの歌ったプラハ、立ちならぶ彫像の垣をもち、昨日から〈永遠〉へと渡されていた壮麗なその橋、外からではなく内側から光を発していたその看板の数々ーー〈黒い太陽〉〈黄金の車輪〉〈金の木〉等々ーー、欲望の金属に鋳造された二本の針が逆方向にまわっていたその大時計、その〈錬金術師通り〉、そしてとくに、他のどこよりも激しかったその理想と希望との沸騰、鴎たちがモルダウ河をいちめんに撹拌して星々を噴きださせようとするあいだに、詩と革命とをひとつのものにしようと願う人間のすれすれに生まれたあの情熱的な交流ーーそのうちのなにが、いま私たちにのこされているのだろうか?  トワイヤンがのこされている。」

 

アンドレ・ブルトン「トワイヤンの作品への序」1953年(『シュルレアリスムと絵画』巖谷國士訳、人文書院、P.245)

 

 ★先生、すばらしい3都市の、それぞれの女性たちを示してくださる魅力的なご講義を、どうもありがとうございました!

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